▼国分寺崖線裾野の湧水を集めて流れる野川の最源流「真姿の池湧水群」の観測日誌 ▼ガイド・観察日誌・トピックス・インフォ→構成は「サイトマップ」「真姿の泉TODAY index」参照
56報~南三陸町防災対策庁舎屋上で、屋上が津波に飲まれる瞬間を撮った職員のこと [東京・国分寺市から~東日本大震災ルポ]
甚大な津波被害を受けた宮城県・南三陸町のホ-ムペ-ジの中に衝撃的な写真を発見したのは、たしか、今から3週間ほど前のことでした。
それは、津波が来る前の様子や、役場の本庁舎が津波に飲み込まれていく写真に続いて、最後の1枚は、津波で屋上まで水没した南三陸町役場防災対策庁舎の屋上の上から、その場所がまさに水没する瞬間を捉えた写真でした。
南三陸町ホ-ムペ-ジ:http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/
行政情報 > 東北地方太平洋沖地震関係 > 南三陸町役場防災対策庁舎屋上から撮影した津波の状況写真
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/uploads/photos1/2064.pdf
見た瞬間、目を疑いました。
航空写真ではなく、まさに、その瞬間、津波に飲み込まれている屋上以外では撮影できない写真です。
でも私はこの写真を、自分のブログからリンクを張って紹介することができませんでした。
この場所で撮影していたということは、役場の広報担当職員に違いありません。
あのアンテナのようなところによじ登っていた二人の職員のうちどちらかだろうか、とも思いました。
でも、アンテナの上にいた人が撮影していたのなら、その後の写真を撮っていてもおかしくない。
しかし、写真は防災対策庁舎の屋上がまさに津波に飲まれる瞬間で終わっています。
撮影者は助かったのだろうか。
撮影者は波に飲まれてしまい、カメラだけが発見され、中のデ-タが無事だったということなのだろうか。
撮影者が無事だったことが確認できるまで、この写真はとても紹介できない。
そう考えていました。
今日(5/21)の朝日新聞夕刊で、その撮影者が波に飲まれながらも、助かったことがわかりました。
撮影者は、当時、企画課で広報を担当していた加藤信男さん(39)。
朝日新聞2011年5月21日14時0分
命かけ残した津波写真 南三陸職員、流されるまで撮影:
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105210191.html
----以下、記事の転載------
3階建ての防災対策庁舎の屋上が津波に襲われた瞬間=3月11日午後3時34分、宮城県南三陸町、加藤信男さん撮影、同町提供
(写真)
加藤信男さん(39)=宮城県南三陸町、三浦写す
(写真)
津波で破壊された防災対策庁舎=20日、宮城県南三陸町、三浦写す
(写真)
津波で破壊され、骨組みだけになった宮城県南三陸町の防災対策庁舎。その屋上で、建物が津波にのみ込まれる瞬間まで、写真を撮影し続けていた町の広報担当者がいた。自らもその直後に流されたが、上司に救助され、一命を取り留めた。「この記録だけは残したい」と、抱え込んだカメラは水につかり壊れたが、データだけは残っていた。
同町総務課職員の加藤信男さん(39)。当時、企画課で広報を担当していた加藤さんは地震発生直後からカメラを握りしめ、棚が倒れて書類などが散乱する役場内を撮り続けた。
町の様子を撮ろうと外に出たとき、役場の隣に立つ高さ13メートルの防災対策庁舎から「すぐ上がれ、津波が来るぞー」という声が聞こえ、階段を駆け上った。
屋上にたどり着くと、海の方から黄色い煙を巻き上げ、津波が押し寄せてくるのが見えた。民家や車をのみ込みながら、庁舎に押し迫ってくる。加藤さんは「ずっと(カメラの)ファインダーをのぞいていたので、不思議と恐怖は感じなかった」。
津波は時間とともに、どんどん高くなった。ちょうど3階建ての庁舎の屋上にまで達しようとしたとき、誰かが「来るぞ、つかまれー」と叫んだ。夢中でシャッターを押し続けていた加藤さんは、慌てて周囲を見回したが、つかまる場所がない。黒い波に足元をさらわれた瞬間、反射的にカメラをジャンパーの内側に押し込んだ。
「自分が死んでも、この記録だけは残そう」
全身がのまれて流された。ふと波間に顔が出たとき、「おれの手につかまれ!」という大声を聞いた。遠藤健治副町長だった。とっさに腕をつかんだが、また体は水面下に潜った。息ができず数分。「ちっくしょー、死にたくない!」。頭の中で何度も考えたが、そのまま気を失った。
水が引いて気がついたときには、庁舎の屋上の端から端まで十数メートル流されていた。手すりをつかんだ副町長が、もう片方の手でずっと離さずにいてくれた。「いくら感謝しても、感謝し切れません」と話す。
庁舎の屋上には当時、約30人の町職員らが避難していたが、生き残ったのは11人だけ。デジタルの一眼レフカメラは使えなくなったが、データは奇跡的に残っていた。加藤さんは「生き残った南三陸の人々と一緒に、これからも一生懸命頑張っていきたい」と話している。(三浦英之)
----以上、記事の転載------
それは、津波が来る前の様子や、役場の本庁舎が津波に飲み込まれていく写真に続いて、最後の1枚は、津波で屋上まで水没した南三陸町役場防災対策庁舎の屋上の上から、その場所がまさに水没する瞬間を捉えた写真でした。
南三陸町ホ-ムペ-ジ:http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/
行政情報 > 東北地方太平洋沖地震関係 > 南三陸町役場防災対策庁舎屋上から撮影した津波の状況写真
http://www.town.minamisanriku.miyagi.jp/uploads/photos1/2064.pdf
見た瞬間、目を疑いました。
航空写真ではなく、まさに、その瞬間、津波に飲み込まれている屋上以外では撮影できない写真です。
でも私はこの写真を、自分のブログからリンクを張って紹介することができませんでした。
この場所で撮影していたということは、役場の広報担当職員に違いありません。
あのアンテナのようなところによじ登っていた二人の職員のうちどちらかだろうか、とも思いました。
でも、アンテナの上にいた人が撮影していたのなら、その後の写真を撮っていてもおかしくない。
しかし、写真は防災対策庁舎の屋上がまさに津波に飲まれる瞬間で終わっています。
撮影者は助かったのだろうか。
撮影者は波に飲まれてしまい、カメラだけが発見され、中のデ-タが無事だったということなのだろうか。
撮影者が無事だったことが確認できるまで、この写真はとても紹介できない。
そう考えていました。
今日(5/21)の朝日新聞夕刊で、その撮影者が波に飲まれながらも、助かったことがわかりました。
撮影者は、当時、企画課で広報を担当していた加藤信男さん(39)。
朝日新聞2011年5月21日14時0分
命かけ残した津波写真 南三陸職員、流されるまで撮影:
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105210191.html
----以下、記事の転載------
3階建ての防災対策庁舎の屋上が津波に襲われた瞬間=3月11日午後3時34分、宮城県南三陸町、加藤信男さん撮影、同町提供
(写真)
加藤信男さん(39)=宮城県南三陸町、三浦写す
(写真)
津波で破壊された防災対策庁舎=20日、宮城県南三陸町、三浦写す
(写真)
津波で破壊され、骨組みだけになった宮城県南三陸町の防災対策庁舎。その屋上で、建物が津波にのみ込まれる瞬間まで、写真を撮影し続けていた町の広報担当者がいた。自らもその直後に流されたが、上司に救助され、一命を取り留めた。「この記録だけは残したい」と、抱え込んだカメラは水につかり壊れたが、データだけは残っていた。
同町総務課職員の加藤信男さん(39)。当時、企画課で広報を担当していた加藤さんは地震発生直後からカメラを握りしめ、棚が倒れて書類などが散乱する役場内を撮り続けた。
町の様子を撮ろうと外に出たとき、役場の隣に立つ高さ13メートルの防災対策庁舎から「すぐ上がれ、津波が来るぞー」という声が聞こえ、階段を駆け上った。
屋上にたどり着くと、海の方から黄色い煙を巻き上げ、津波が押し寄せてくるのが見えた。民家や車をのみ込みながら、庁舎に押し迫ってくる。加藤さんは「ずっと(カメラの)ファインダーをのぞいていたので、不思議と恐怖は感じなかった」。
津波は時間とともに、どんどん高くなった。ちょうど3階建ての庁舎の屋上にまで達しようとしたとき、誰かが「来るぞ、つかまれー」と叫んだ。夢中でシャッターを押し続けていた加藤さんは、慌てて周囲を見回したが、つかまる場所がない。黒い波に足元をさらわれた瞬間、反射的にカメラをジャンパーの内側に押し込んだ。
「自分が死んでも、この記録だけは残そう」
全身がのまれて流された。ふと波間に顔が出たとき、「おれの手につかまれ!」という大声を聞いた。遠藤健治副町長だった。とっさに腕をつかんだが、また体は水面下に潜った。息ができず数分。「ちっくしょー、死にたくない!」。頭の中で何度も考えたが、そのまま気を失った。
水が引いて気がついたときには、庁舎の屋上の端から端まで十数メートル流されていた。手すりをつかんだ副町長が、もう片方の手でずっと離さずにいてくれた。「いくら感謝しても、感謝し切れません」と話す。
庁舎の屋上には当時、約30人の町職員らが避難していたが、生き残ったのは11人だけ。デジタルの一眼レフカメラは使えなくなったが、データは奇跡的に残っていた。加藤さんは「生き残った南三陸の人々と一緒に、これからも一生懸命頑張っていきたい」と話している。(三浦英之)
----以上、記事の転載------
データは「希望」なのでしょうね。。。
しかし東北はタフな方々が多いと感じます。
by rtfk (2011-05-22 00:07)
おはようございます。訪問遅くなり申し訳ございません。
東北の方々の力を信じ、いち早い復興を願います。
風邪はすっかり大丈夫です。ご心配ありがとうございます。
by オカジュン765 (2011-05-22 07:46)
後世に残したい一心で撮影された津波。
どんな思いでカメラを握っていたのか筆舌に尽くしがたいでしょうね。
この思いが未来に繋がるよう切に願います。
by ぱぱくま (2011-05-22 09:43)
rtfkさん、オカジュンさん、ぱぱくまさん、本当に東北人独特の強さというものを、いろんな場面で感じます。東北の長い飢饉や飢餓の歴史の中で、生き残ってきた人々のDNAというものを感じます。
大災害の最中、多くの人が「記録しなくては」という使命感にも似た衝動にかられます。これは私にも経験があります。転勤先の西宮で遭遇した阪神大震災の時、地震がおこった1月17日の直後から、再び転勤で東京に戻った7月まで、普段は日記などつけない私が、日々のことを書きなぐりのメモのように書き続けました。
東京に戻ってから3年間、そのノートを開いて見る気にはなれませんでしたが、ちょうど丸3年たってからそのノートを開き、文章として整理しなおしました。
(「東京発・三年目の震災日記」としてホームページにも公開しています。)
私は、被災地に対してはとうとうカメラを向けることができず、一枚の写真も撮ってはいませんが、目に焼きついたものを文字で記録し続けました。
それは、記録を残さねばという使命感に似た思いでもあり、ここに居れば次の瞬間は死ぬかもしれないという覚悟に似た気持ちを持ちながら、今はまだ生きているその証としての記録だったような気がします。
三陸では、明治29年の三陸大津波が高さ20m以上、場所によっては50m近くに達したという記録が残されていたようですが、それが人々の記憶の中には生きていなかったことが「想定外」を生んでしまったようです。
今回の津波では、膨大な画像による記録が残されており、津波がどこまで及んだかが誰の目にも一目瞭然な記録を後世にまで残すことができます。
これらの資料が散逸し、埋もれることのないよう、統合して保存することが重要になってくると思います。
by お水番 (2011-05-22 11:23)