▼国分寺崖線裾野の湧水を集めて流れる野川の最源流「真姿の池湧水群」の観測日誌 ▼ガイド・観察日誌・トピックス・インフォ→構成は「サイトマップ」「真姿の泉TODAY index」参照
<バス旅行>上野国分寺・国府跡と古代かみつけの里を歩く~2.山王廃寺跡 [インフォメ-ション&レポート]
コース
①上野国分僧寺跡・ガイダンス施設上野国分寺館―尼寺跡(車中から場所のみ確認)→②山王廃寺跡→③総社資料館(昼食)→④宝塔山古墳(石室見学)→⑤蛇穴山古墳(石室見学)→⑥かみつけの里博物館→⑦八幡塚古墳
上野(かみつけ)国分僧寺を後にして、その真東に位置する尼寺跡がこのあたりだと車中から確認。
畑しかありません。
バスは少し北へ向かい、山王廃寺跡近くに到着。
文化遺産オンラインの地図をご参照ください:
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=216019
前橋市教育委員会のパンフレットより
-------
国指定史跡・山王廃寺跡は住宅地の中にあります。
住宅地といっても、周辺は古くからの養蚕農家の大きなお屋敷がたちならび、これまたりっぱな防風林が続いています。
▼バスを降りると、道路沿いにこんな木造建物が。窓から妖怪?みたいなものがのぞいています。思わずパチリ。
▼地元の偉人・都丸高親翁の碑
▼立派な養蚕農家のお屋敷が続いています。表札はどれもぜんぶ「都丸」。「みやこまる」と読むのだそうです。
▼養蚕農家の防風林。家ごとにさまざまな形の防風林が続き、独特の景観を形成しています。
▼大谷石の風情のある建物がありました。左側に「阿久津石材店」の看板があり、右側の大谷石の建物はたばこやさん。
▼その向かい側が日枝(山王)神社。とても狭い神社ですが、この境内に「山王廃寺」の塔心礎があります。
山王廃寺は飛鳥時代(白鳳時代)の寺の跡。
その五重塔の礎石が日枝神社の境内から発見されたのが大正時代のはじめ。
神社の守護神「山王権現」の名前を取って山王廃寺と呼ばれているけtれど、寺の本当の名前が「山王寺」だったわけではなく、本当の名前は出土物などから「放光寺」だったそうです。
六角形の覆いの中をのぞくと・・
▼これが五重塔の心礎。仏舎利を納める穴があります。非常に精巧な加工で、古代のこの地が高度な石加工文化をもっていたことがうかがい知れます。
それは、このあとに見学した古墳群を見た時に実感しました。
▼こちらには、出土した根巻石と石製鴟尾(しび)が展示されています。
▼根巻石
▼石製鴟尾
▼日枝神社の社殿
▼日枝神社の縁起
▼山王廃寺の伽藍図の看板がありましたが、これは内容が古いそうで・・・。
▼最近の発掘調査で確認された最新のもの。
山王廃寺の伽藍配置は、回廊の内部に右に塔、左に金堂を配置ししたもの。奈良斑鳩の法隆寺式の左右が逆になった配置で、斑鳩の法起寺と同じ。年代的には、七世紀の後半だそう。
全国に国分寺がつくられるより以前、法隆寺とあまり変わらない時代、東日本最大の本格的寺院がここ前橋にあったのです。
①上野国分僧寺跡・ガイダンス施設上野国分寺館―尼寺跡(車中から場所のみ確認)→②山王廃寺跡→③総社資料館(昼食)→④宝塔山古墳(石室見学)→⑤蛇穴山古墳(石室見学)→⑥かみつけの里博物館→⑦八幡塚古墳
上野(かみつけ)国分僧寺を後にして、その真東に位置する尼寺跡がこのあたりだと車中から確認。
畑しかありません。
バスは少し北へ向かい、山王廃寺跡近くに到着。
文化遺産オンラインの地図をご参照ください:
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=216019
前橋市教育委員会のパンフレットより
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国指定史跡・山王廃寺跡は住宅地の中にあります。
住宅地といっても、周辺は古くからの養蚕農家の大きなお屋敷がたちならび、これまたりっぱな防風林が続いています。
▼バスを降りると、道路沿いにこんな木造建物が。窓から妖怪?みたいなものがのぞいています。思わずパチリ。
▼地元の偉人・都丸高親翁の碑
▼立派な養蚕農家のお屋敷が続いています。表札はどれもぜんぶ「都丸」。「みやこまる」と読むのだそうです。
▼養蚕農家の防風林。家ごとにさまざまな形の防風林が続き、独特の景観を形成しています。
▼大谷石の風情のある建物がありました。左側に「阿久津石材店」の看板があり、右側の大谷石の建物はたばこやさん。
▼その向かい側が日枝(山王)神社。とても狭い神社ですが、この境内に「山王廃寺」の塔心礎があります。
山王廃寺は飛鳥時代(白鳳時代)の寺の跡。
その五重塔の礎石が日枝神社の境内から発見されたのが大正時代のはじめ。
神社の守護神「山王権現」の名前を取って山王廃寺と呼ばれているけtれど、寺の本当の名前が「山王寺」だったわけではなく、本当の名前は出土物などから「放光寺」だったそうです。
六角形の覆いの中をのぞくと・・
▼これが五重塔の心礎。仏舎利を納める穴があります。非常に精巧な加工で、古代のこの地が高度な石加工文化をもっていたことがうかがい知れます。
それは、このあとに見学した古墳群を見た時に実感しました。
▼こちらには、出土した根巻石と石製鴟尾(しび)が展示されています。
▼根巻石
▼石製鴟尾
▼日枝神社の社殿
▼日枝神社の縁起
▼山王廃寺の伽藍図の看板がありましたが、これは内容が古いそうで・・・。
▼最近の発掘調査で確認された最新のもの。
山王廃寺の伽藍配置は、回廊の内部に右に塔、左に金堂を配置ししたもの。奈良斑鳩の法隆寺式の左右が逆になった配置で、斑鳩の法起寺と同じ。年代的には、七世紀の後半だそう。
全国に国分寺がつくられるより以前、法隆寺とあまり変わらない時代、東日本最大の本格的寺院がここ前橋にあったのです。
石の鴟尾があるのですね
by ハマコウ (2012-06-27 19:37)