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2.井戸堀りのための櫓(やぐら)か?~歌川国芳の浮世絵に描かれた東京スカイツリーみたいな超高層櫓 [[特集]水都・江戸の風景]

昨日遅く、「江戸の景観~歌川国芳の浮世絵に東京スカイツリー?」をアップしたところ、きたろうさんとおっしゃる方から、コメント欄に貴重な情報が寄せられました。

きたろうさんは、昨日(2月22日)朝、謎の塔を取り上げたテレビ番組を見て刺激を受けられ、東京新聞で情報を確認した後、現地へ行って写真を撮って来られたそうです。

きたろう散歩番外編”歌川国芳の浮世絵VS東京スカイツリー”:
http://hiroshige-kitarou.blog.so-net.ne.jp/2011-02-23

さっそく、きたろうさんのブログを拝見しました。

きたろうさんは、すぐさま浮世絵の視点場直近の場所から撮影され、その写真を公開しておられます。
私は昨日、東京新聞の現物を入手できませんでしたので、本文の中に何が書かれているのかわからないまま、とりあえず、地図で方向を確認しました。
国芳の絵は、ずいぶんと広角アングルで、ちょうどパノラマ写真のような視界を一枚の紙の中に収めたのだなあと思いました。
きたろうさんのパノラマ写真でそれが実感できました。

■「東都 三ツ股の図」の縦横比率
国芳の絵の横方向に収まっている風景を写真に収めるためには、横に長~~いパノラマ写真にしなければなりませんが、そのアングルを国芳は一枚の紙の上に収めています。

って、絵の現物がないとわかりませんよね。禁じ手ですが、画像をお借りしてきました。(ゴメンナサイ)
歌川国芳「東都 三ツ股の図」.jpg

近景の、舟底を焼いている様子には、縦横比率の狂いは感じられませんが、遠景はというと、横に長い風景を、左右からぐっと押しつぶすように縮めて収めこんでいるのです。
歌川国芳という人、西洋の遠近法を取り入れた人だそうですが、写実的な風景画のようでいて、どっこい、ちゃんと”だまし絵”になっているのが面白いですね。

■井戸堀りのための櫓(やぐら)説
さて、東京スカイツリーみたいな超高層櫓の正体についてですが。
東京新聞の記事紹介のテレビ番組では、井戸堀りの為の櫓という説もあると紹介されていたそうです。
しかし、この辺りの地下水は塩分を含んでいるので、井戸掘りのための櫓では無いとする説もあるそうです。
そして、きたろうさんは、井戸掘りのための櫓説を支持されているとのことです。
浅い井戸では、塩分が混じるので深い井戸を掘ろうとするが故に、このような高い櫓が必要だったのだと考えていらっしゃるそうです。

井戸掘りのための櫓説、大変興味深いです。
東京の地下水のこととなれば、このブログの守備範囲ですので、調査に乗り出さないわけにはまいりません。

■江戸の地下水と井戸堀り技術
あいにく井戸掘り技術のことは詳しくないので、これからちょっと調べてみなければなりませんが、東京の地下水事情についてちょっとお話をいたしますと、東京湾とその周辺の地下深くには、関東平野の周囲の山から地下にもぐった水が地下の斜面を流れてきて、ここに溜まる場所。つまり、巨大な水盆になっているそうです。
浅い井戸では、この深い地下水には届きません。
しかし、地下深く閉じ込められている地下水には、圧力がかかっているので(被圧地下水)、そこを掘り抜けば、水は地上へと噴き出す(自噴)することがあるそうです。

江戸時代の末期、その深層の被圧地下水を掘りぬくほどの井戸掘り技術が果たしてあったのかどうか。
明治時代になって普及したという「上総堀り(かずさぼり)」という井戸堀り技術は、江戸時代の終わりごろ、上総地方では既に発明されていたとも聞き、上総堀りでは深さ100メートルまでも掘ることができると聞きますが、この謎の櫓は上総堀りの櫓とは形が違います。
上総堀りが普及する前に上方から伝わったという「大坂堀り」(大阪ではなく大坂)の櫓に似ているようです。大坂堀りが江戸に普及したことにより、それまで超高価だった井戸掘り費用が格段に安くなったそうです。
しかし、大坂堀りは高い櫓を組んで長い鉄棒を土の中に落とし込んで突き堀りし、その鉄棒を繋いでさらに長くすることによって深く掘るという技法だったため、深く掘れば掘るほど鉄棒の重さが増し、それを人力で引き上げられなくなる。
そのため、あまり深い井戸は掘れなかったそうです。

ご参考までに、下の動画の中に、上総堀り以前の伝統的井戸堀り工法が出てきます。

上総堀り~伝統的井戸掘り工法 1/4


国芳さんの絵の櫓の形はどうも大坂堀りの櫓に似ているようですが、見れば見るほど不思議な絵。
二つの櫓の左側に描かれている橋は、隅田川に流れ込む小名木川にかかる「万年橋」 と考えられるそうですが、大坂堀りの櫓に似ている塔の高さは、「万年橋」の長さの軽く2倍半はありそう。
そして、その隣の火の見櫓にしても、フォルムが細長すぎやしませんか。どっちの櫓も、力学的に立っていられそうもない比率です。

■「三ツ股図」水平方向の縮小を元に戻してみる
そこでちょっと実験です。
国芳さんは、本当は横に長~~いアングルを、左右から押しつぶすように縮小して紙の上に収めているようなので、その縮小を元に戻してやるとどうなるか。

↓まず、こちらが国芳さんのオリジナル。
歌川国芳「東都 三ツ股の図」.jpg

↓水平方向の長さだけを2倍にしてみたのが下の画像です。実際の遠景の広がりは、たぶん、こんな感じでしょう。(貴重な画像を加工するなど、これまた罰当たりですが、どうぞご勘弁を。)
歌川国芳「東都 三ツ股の図」水平方向×2.jpg

水平方向2倍にしてやると、火の見櫓は立っていられそうなカタチになりました。
そして、大坂堀りの櫓に似ている塔のほうも、万年橋の長さとほぼ同じになりました。

でもやっぱり変です。
塔の手前の隅田川の川岸に並んでいる蔵の高さは、低く見積もっても4~5メートルはあります。それに対して、大坂堀りの櫓に似ている塔は、蔵の高さの8倍以上。隅田川の川岸近くに塔が建っているとしても、高さは40メートルにもなるのです。そして、塔の直径は3~4メートル以下。
やっぱりありえない。
どう考えても、高さにおいて大幅な誇張があるとしか思えません。

カタチからいえば、大坂堀りの櫓のようです。
国芳さんが描いたものは、巨大な大坂堀りの櫓だった。

でも、それが本当にこの方向に建っていたのかというと、それはやっぱり謎なのです。

長くなりましたね。続きはまた今度。


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rtfk

ますます不思議ですね^^)
何か別の意味の櫓の可能性もあるでしょうし・・・。
想像が膨らんで楽しいです!
by rtfk (2011-02-24 08:16) 

お水番

rtfkさん、おはようございます。
一応、井戸堀りのための櫓説を前提にして、今、いろいろ調べています。
江戸時代の隅田川東岸の水事情は、隅田川西岸とは随分違っていたようで、玉川上水や神田上水の恩恵に浴さなかった土地。庶民は、飲み水は水屋(水を売り歩く商売)から買って、生活水は打ち抜き井戸から得ていたという背景があるようです。
深川あたりの火の見櫓についても調べています。
いろいろ面白いことがわかってきましたので、続きを書きたいと思います。
by お水番 (2011-02-24 10:37) 

きたろう

こんにちは!お水番さん。”ひらがな”の”きたろう”です。
丁重な”きたろう散歩”のご紹介、ありがとうございました。
謎の塔について、別な視点から考えて見ました。この当時は、お上の規制が厳しいので、このような高い塔の建設は許可にならないと思います。、井戸掘り用櫓のように一時的なもので、公共の利益になる塔なら建設の許可は下りると思います。また、仮に恒久的な建造物として許可になったとしたら、当時の、複数の浮世絵師が、描いていると思われますが、そのような浮世絵はあるのでしょうか?
そのように考えると、少なくとも、一時的な建造物であるのは間違いないと思います。(国芳の創造であれば、国芳の頭の中の一瞬の建造物ということになる。)
以上の説は、きたろうの全くの仮説で裏をとっておりません。(本当は、調べれば良いのでしょうが、言いっぱなしですみません。)
END
by きたろう (2011-02-25 14:03) 

お水番

ひらがなの”きたろう”さん、ようこそ。お世話になっております。
きたろうさんのお説に私もまったく同感です。
井戸掘り用櫓というのは、どうも組み立て式だったらしく、あっという間に組み立てて、あっという間に解体し、井戸掘り職人はそれを持って、あちこち渡り歩いていたという記述もあります。
なので、江戸(特に、上水がなかった=正確には廃止された=隅田川東岸)の空のあちこちに、この櫓が出現しては消えていたのではないでしょうか。
隅田川東岸の永代橋と万年橋のちょうど中間くらいの佐賀町に、高さ9mほどの火の見櫓があったそうで、その火の見櫓の倍も高い櫓が並んでたっている風景の面白さを、国芳は絵に書き込んだのではないでしょうか。
「火消しの櫓」と「水汲み井戸を掘る櫓」が並んでいるのを、江戸子は面白がったのかも。

by お水番 (2011-02-25 15:33) 

一風斎ねこよし

はじめまして。小生ながらく浮世絵を研究している者です。
この国芳の浮世絵に描かれた電波塔のようなものは、実は数年前に一部で話題になりました。私も不思議に思い、著名な広重の研究家の先生にお尋ねしましたが、分かりませんでした。
 その後「シーボルトと北斎展」で、フランス国立図書館所蔵で北斎工房作の、紙本着色の「井戸堀り」を見た時、「ああこれだ」と腑に落ちました。
やはり「井戸堀りの櫓」だと思われます。
北斎の「富嶽三十六景」の「東都浅草本願寺」にもこの櫓が描かれています。
 国芳は北斎をとても尊敬していましたから、その影響を受け、かつ櫓の高さを誇張したのではないでしょうか。


by 一風斎ねこよし (2011-02-26 17:23) 

お水番

一風斎ねこよし様、貴重なコメントをありがとうございます。
北斎工房作の、紙本着色の「井戸堀り」というのがあるのですね。これはまだ見つけていませんが、探してみたいと思います。
北斎の「富嶽三十六景」の「東都浅草本願寺」は、凧と同じくらいの高さの井戸掘りの櫓が描かれていますね。
これは、今回のにわか勉強で、本屋で立ち読みした画集の中で見かけました。うウェブサイトでも紹介されています。
北斎が「富嶽三十六景」を発表した時期と、国芳が「東都三ツ股の図」を描いたであろう向島時代の時期が一致しているので、井戸掘り工法も同じだっただろうと推察しているのですが、国芳は北斎をとても尊敬していたのですね!

今、ひとつ疑問に思っているのは、東京新聞の記事によると、「東都三ツ股の図」の火の見櫓の左側の橋を深川万年橋と想定しているのですが、北斎の 「深川万年橋下」 (富嶽三十六景)を見ると、見事なアーチ型の橋で、「東都三ツ股の図」の火の見櫓の左側の橋とはどうも形も橋脚の数も違うように思えます。
この橋は、万年橋の南側の「上ノ橋」なのではないかと思っているのですが、いかがでしょう。

もし、東都三ツ股の図」の火の見櫓の左側の橋が「上ノ橋」だとすると、そのとなりの火の見櫓は、現在の佐賀町2丁目にあったという火の見櫓だと特定ができそうなのですが、いかがでしょうか。



by お水番 (2011-02-27 00:02) 

きたろう

こんばんは!お水番さん。きたろうです。
「上ノ橋」の画像探しましたが、江戸時代のものは見当たりませんでした。明治の日本画家で井上安治という画家が、明治20年前後に描いた「深川仙台堀」という題の絵(版画?)に「上ノ橋」が描かれています。その絵を見ると、国芳の絵の左側の橋と良く似ています。
この絵は、手持ちの本で見つけましたが、この絵はネット上でもアップされています。
たとえば、「J.KOYAMA LAND 番外地 大吟醸」さんのブログ
http://daiginjyo.koyama.mond.jp/?cid=2
などにアップされています。
お水番さんの、あいまいな点を一つづつ検証してゆく行動は敬服致します。
END
by きたろう (2011-02-28 00:12) 

一風斎ねこよし

こんにちわ。

お尋ねの件ですが、森川さんのサイトに深川万年橋の写真があります。
http://homepage3.nifty.com/morikawa_works/hiroshige54.html

従っておっしゃるように左側の橋は万年橋の可能性はあると思います。

実際、北斎の浮世絵のように丸いアーチだと、渡りにくいのではないでしょうか。
by 一風斎ねこよし (2011-02-28 13:01) 

お水番

きたろうさん、貴重な情報をありがとうございます。
井上安治という明治の画家が描いた「深川仙台堀」の絵、見ました。
井上安治は1864年 (元治元年) 生まれ、1889年 (明治22年) 9月病没とあり、この作品は明治20年前後に描かれたものとのこと。仙台堀が隅田川に交わるところに「上の橋」がかかっているので、「深川仙台堀」の構図は、隅田川から
仙台堀を眺めているようですね。国芳の絵の左側の橋とよく似ていますね。

私は、 川瀬巴水という画家が大正9年に描いた「東京十二題 深川上の橋」という絵をウェブで見つけました。
江戸東京博物館収蔵検索:
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0194203203&y1=1900&y2=1920
この橋も、国芳の絵の左側の橋とよく似ているようですが、橋自体は特に特徴のない、ゆるいア-チ型のごく普通の橋です。
時代が1920年(大正9年)なので、国芳が三ツ股の図を描いた1830年代からは90年近くたっています。

この中間の年代の絵を探していたのですが、きたろうさんが教えてくださった井上安治の絵は、1880年代のおわりごろ。国芳の三ツ股の図から、ざっと50数年くらいですね。
この絵も国芳の絵と同じく、隅田川川からの構図なので、絵の右側のどこかに国芳と同じような火の見櫓があったら決定打だったのですが、煙突ばかりですね。火の見櫓はこの時代にはもう無かったか、絵よりももっと右側にあったのかもしれません。
煙突は何の煙突なんでしょうね。深川江戸資料館あたりに行ってみると詳しいことがわかるかもしれません。



by お水番 (2011-02-28 15:55) 

お水番

一風斎ねこよしさん、これまた貴重な情報をありがとうございます。
なんだかすごいことになってきましたね。

北斎の富嶽三十六景「深川万年橋下」を見ると、その見事な構図に感嘆しつつも、「なんと渡りにくそうな橋なんだ」と思いました。
広重の名所江戸百景「深川万年橋」のほうも、まずはぶら下がっている亀に目を奪われ、亀は万年にクスリとしましたが、橋の形は北斎の万年橋に負けず劣らず、きついアーチみたいです。

萬年橋の架かる小名木川は、旧中川から隅田川を結ぶ物資の輸送路として江戸時代に開かれた水路で、江戸時代の「萬年橋」は、船の通行の邪魔にならないようにアーチ状に作られていた、という記述を読んだことがあります。
人の渡りやすさよりも、船の通行が優先されたのかなと思っていましたが、一風斎ねこよしさんが教えてくださった明治期の万年橋の写真は、ほとんど平らで広重や北斎の絵とはまったく違いますね。

写真で気になるのは、橋の橋脚の部分に斜めの筋交いがはいっていること。
こうした筋交いは、北斎の画にはありませんね。
江戸時代の橋の画を見ると、こうした橋をささえる筋交いが橋脚に取り付けられているのはあまり見かけないように思います。
これは、明治になってからの工法なのかなと思ったりもしています。

さて、いよいよわからなくなってきました。




by お水番 (2011-02-28 16:38) 

一風斎

こんばんわ。この国芳の浮世絵についての記事が、今日の中日新聞にもついておりました。
 北斎の橋を描いた浮世絵には、こいうものもあります。
「たかはしのふじ」
http://www.muian.com/muian08/08souri_youfuu03.jpg
オランダの銅版画の影響があるといわれています。

万年橋は「番所橋」ともいわれていたようです。
by 一風斎 (2011-03-03 22:41) 

お水番

一風斎さん、ありがとうございました。
「たかはしのふじ」にはビックリです。
橋脚が恐ろしく高く描かれていますね。こんなに高い橋脚は、物理的はありえないですよね。

「たかはし」というのは、小名木川の「高橋」でしょうか。
そうだとすると、画面の奥の橋は万年橋、でしょうかね。アーチがそんなにきつくはありませんね。
ここらあたりが、万年橋の本当の姿だったかもしれませんね。

それにしてもこの絵の構図、富士山が隅田川に浮かんでいるような。
なんとも不思議な絵です。

by お水番 (2011-03-04 01:22) 

きたろう

こんばんは!お水番さん
国芳描く、火の見櫓の縦横比に疑義をお持ちのようですが、きたろうも細長すぎると思います。手前味噌になりますが、「きたろう散歩(名所江戸百景を歩く)」の第10回「市ヶ谷八幡(春41景)」を撮る(http://hiroshige-kitarou.blog.so-net.ne.jp/2010-04-30)の中の、広重の市ケ谷八幡の絵の中に火の見櫓が描かれています。また、ほぼ同じ場所を撮影した明治5年の写真の中に、火の見櫓が写っています。この写真を見ると、火の見櫓は、かなりずん胴です。
参考にしてください。
by きたろう (2011-03-04 21:15) 

お水番

きたろう さん、こんばんは。
浮世絵に描かれた火の見櫓を、同じアングルの古写真で見られるなんて、ホントに凄い。感激です!
ずんぐりしていますね。これはもう、地震がきてもバッタリと倒れることはない、いかにも頑丈そうなフォルムですね。
国芳の絵の火の見櫓は、いかにもひょろ長くて、比率は絶対に変ですが、誇張というよりも、印象はこんな風だったのかもしれませんね。
by お水番 (2011-03-04 23:27) 

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