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武蔵野のパワースポット?~何かある場所・武蔵国分寺七重の塔跡から見る富士山頂への日没 [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]

昨年(2010年)11月19日、文化審議会が文部科学相に、富士山を国の史跡に指定する答申を行いました。
日本の古代から近代に至る山岳信仰のあり方を考える上で重要として、8合目以上の山頂部と社寺などを指定するのだそうです。

武蔵国分寺の七重の塔と僧寺寺院地区画溝の南西の角を結ぶ線を延長すると富士山頂に到達し、その方角は冬至の日没の方角とピッタリ一致します。
奈良時代に国分寺建立の詔を受けて武蔵国分寺の伽藍配置が設計された当初から、富士山頂と冬至の日没の方角が強く意識されていたのは間違いないだろうと考えています。

しかし、武蔵国分寺から見えていた当時の富士山の姿は、現在のような穏やかで秀麗な姿ばかりではなかったようです。
奈良時代から平安時代の終わり頃まで、富士山はさかんに噴火を繰り返し、絶えず噴煙を上げていたのだとか。
富士山の噴火が正式な記録文書に残された最初は781年、奈良時代の終わりごろですが、それ以前、万葉集にも富士山の噴火をうかがわせる歌があるそうで、奈良時代の始めごろにも噴火をしたようです。
武蔵国分寺の設計・建設が行われていたころにも、富士山は噴煙を上げていたか、あるいは噴煙はおさまっていたとしても、噴火の記憶が新しい、そんな時代だったようです。

12月22日の冬至の日、太陽は富士山頂の真下に向かって、富士山の左の肩口から沈みます。
富士山頂に沈むのは12月の頭と1月の中ごろ。
運がよければダイヤモンド富士が見られますが、今年はどうでしょう。

去年の1月14日には、七重の塔跡から、富士山頂に沈む夕日の撮影に成功しました。
http://musashi-kokubunji.blog.so-net.ne.jp/2010-10-21-2

武蔵国分寺の全盛期、冬至前後の太陽が噴煙を上げる富士山の真裏に沈んで行く光景を、人々はどんな思いで眺めていたのでしょう。
当時の人々の富士山への信仰は、現在の穏やかな富士山への畏敬とは違う、もっと深い畏れだっただろうことは想像に難くありません。

武蔵国分寺と富士山頂を結ぶラインをさらに西へ延ばしていくと、伊勢の二見ヶ浦に到達します。
二見ヶ浦からも富士山は見えるそうで、夏至の頃、夫婦岩の間に小さく見える富士山の真裏から、大きな大きな朝日が、富士山をすっぽり覆うように昇ってきます。
そんな瞬間をとらえた現地のポスターを写真に撮ったものを拝見したことがあり、目が釘付けになりました。

真っ赤な朝日の真ん中に、奈良・平安時代の噴煙を上げる富士山が見えたら・・・。
人々が抱くのは、畏敬というよりむしろ畏怖の念ではないでしょうか。
それは、富士山そのものに対する畏怖であるばかりでなく、そうした光景が見える伊勢二見ケ浦という土地そのものが信仰の場となっていったのだと思います。

このたび、国の史跡指定の答申がなされた場所は、富士山の八合目以上の山頂部と社寺だということですが、富士山は、富士山そのものだけでなく、それを眺める場所が信仰の場所となってきたということを、あらためて考えさせられます。

ハケ上、あるいは高いビルやマンションの上から富士山の見える場所はたくさんあります。
しかし、ハケ下で何ものにも遮られず富士山が見える場所が残っていること自体、奇跡のように思います。
古代寺院武蔵国分寺の中心的建物であった七重の塔の場所から、今でも富士山が見えるというのは、やっぱりこの場所、「何かある」という気がします。

世の中、パワースポット流行で、昨年1年で伊勢神宮の参詣者は史上最高の860万人だったとか。
きょうもテレビで、いかにもご利益がありそうな各地のパワースポットが紹介されています。
武蔵国分寺の七重の塔跡の中心、芯柱を受けていた心礎の上に立って、富士山山頂の沈む夕日を眺めながら、古代の噴煙を上げていた富士山の姿を想像してみるのもよいですね。

ダイヤモンド富士が見られるとしたら、ここ3~4日の間です。
私は今月は忙しすぎて、撮影はちょっと絶望的なのですが・・・。

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