▼国分寺崖線裾野の湧水を集めて流れる野川の最源流「真姿の池湧水群」の観測日誌 ▼ガイド・観察日誌・トピックス・インフォ→構成は「サイトマップ」「真姿の泉TODAY index」参照
四小跡地の東山道武蔵路の特殊遺構について~小野本敦さんの報告から [[トピックス-3]歴史・文化財をめぐる風景]
地図、図面、図版を追加し、追記しました。(11/4)
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今日(11/3)はいずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)を聞いてきました。
講師の近江俊秀先生、佐藤信先生の講演も大変聞きごたえがありましたが、これについてのレポートはまたの機会に。
今日の基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話の中に、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告があり、大変興味深いものでした。
第三期の西側の溝に接するように表示されることになっている「特殊遺構」なるものが一体何なのか、前から気になっていましたが、墨書土器を二つ重ねて埋められたものが潰れた状態で、硬化面の上から出てきたのだそうです。
土器は平安時代のものだとのこと。
埋納状態推定図によると、「久」という文字を丸で囲んだ墨書が書かれた浅いお椀型の須恵器の上に、同じような形のもうひとつの須恵器が、伏せた状態で重ね合わせられています。(お椀の口と口を打ち合わせた状態)
「丸に久」の墨書土器は、宮城県の多賀城跡山王遺跡から出ており、四小跡地から出たものも、これに非常によく似ているとのこと。
山王遺跡からは、人面土器や人形も大量に出ており、マツリに使われたものだそうです。これらの写真も紹介されました。
土器をふたつ重ねた形状については、宇治拾遺物語の巻十四の十に、「土器を二つうちあわせて黄色のこよりで十文字にからげて土に埋め、呪詛に使った」というくだりがあるそうです。
また、道路で行うマツリとして、道饗祭(みちあえのまつり)、四角祭(しかくさい)というものがあり、道饗祭(みちあえのまつり)とは、京城四隅の路上において、外から来る疫神が京内に入らないよう、道に迎えて饗応するマツリ、四角祭(しかくさい)とは、道饗祭から派生した祭祀で陰陽寮が行うものだそうです。
東山道遺構の道端からこのようなものが出てきたのは、非常に大きな発見だとのこと。
この「特殊遺構」について、今日、はじめて聞いたので、私も大変興味をひかれました。
多賀城といえば、東山道の北の果て、陸奥国府が置かれた場所ですよね。
「丸に久」の墨書土器は、これまで多賀城跡以外からは出ていないそうで、四小跡地の東山道武蔵路遺構から出た「丸に久」の墨書土器が、東山道の北の果ての陸奥から来たものだとすると、いったいなぜ、ここに運ばれてきたのか、陸奥の土器でなぜ祭祀をとりおこなったのか。
あるいは、「丸に久」の墨書土器は武蔵国で作られたもので、「丸に久」の文字に込められた意味合いにおいて、陸奥と武蔵に共通のものがあったと考えるべきなのか、謎は深まるばかりです。
さて、この講演会が終わった帰り道、一緒に受講した友人と30分ほどお茶をした後、スーパーで買い物をして、家に向かって東山道武蔵路の遺構道路を歩いていると、なんと、向こうから小野本さんが一人で歩いてきました。東山道の上で会うとは奇遇です。
基調報告が素晴らしかったこと、「特殊遺構」の土器のお話が大変面白かったなどと感想を申し上げたところ、非常にうれしそうな顔をなさり、丸に久と書かれた墨書土器などの写真を撮るために、自腹で多賀城跡山王遺跡まで行ったのだそうです。
「特殊遺構」については、「もっと面白い話があるので、ぜひ、お話したい」とのことでした。
家に帰ってからあらためて遺跡地図を眺めてみると、四小跡地の東山道遺構の場所は、七重の塔から見て、ちょうど戌亥(北西)の方角にあたっています。
この場所で平安時代、道饗祭(みちあえのまつり)や四角祭(しかくさい)みたいなマツリが行われていたらしいと思うと、本当にワクワクしてしまいます。
是非、詳しいお話を聞きたいものです。
このブログでもレポートしてきたように、旧四小跡地内の東山道武蔵路遺構の表示は、隣接する福祉施設事業者らのゴリ押しによって実施設計がくつがえされ、道路遺構を芝生(草地)にしてその周囲が舗装という、まさにあべこべの表示になってしまうことが決定されてしまいました。
参照:http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2010-08-25-1
しかしこの場所は、単に古代道路があったというだけでなく、東山道武蔵路自体が武蔵国分寺寺域の「結界」としての機能をもち、その四隅のひとつとして祭祀の場であったかもしれないことがわかりました。
古代道路遺構の中でも特に重要な箇所として位置づけられるべき場所が保存され、国の史跡に指定されたことはまことに喜ばしいことですが、それならばなおのこと、適切な遺構表示がされるべきでした。
ふるさと文化財課としても、この表示は決して本意ではないでしょう。
整備完了後は、この歴史公園の現地解説など、多くの人に知ってもらうための仕掛けに、力を入れて行くとのことです。
小野本さんら、若い研究者たちの熱意が、今、ひしひしと伝わってきます。
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今日(11/3)はいずみホールで行われた国史跡指定記念歴史講演会「東山道武蔵路の時代-日本の古代道路とその保存・活用-」(国分寺市・国分寺市教育委員会主催)を聞いてきました。
講師の近江俊秀先生、佐藤信先生の講演も大変聞きごたえがありましたが、これについてのレポートはまたの機会に。
今日の基調報告を行った、ふるさと文化財課の小野本敦さんのお話の中に、四小跡地の東山道武蔵路関連遺構として表示されることになっている「特殊遺構」についての報告があり、大変興味深いものでした。
第三期の西側の溝に接するように表示されることになっている「特殊遺構」なるものが一体何なのか、前から気になっていましたが、墨書土器を二つ重ねて埋められたものが潰れた状態で、硬化面の上から出てきたのだそうです。
土器は平安時代のものだとのこと。
埋納状態推定図によると、「久」という文字を丸で囲んだ墨書が書かれた浅いお椀型の須恵器の上に、同じような形のもうひとつの須恵器が、伏せた状態で重ね合わせられています。(お椀の口と口を打ち合わせた状態)
「丸に久」の墨書土器は、宮城県の多賀城跡山王遺跡から出ており、四小跡地から出たものも、これに非常によく似ているとのこと。
山王遺跡からは、人面土器や人形も大量に出ており、マツリに使われたものだそうです。これらの写真も紹介されました。
土器をふたつ重ねた形状については、宇治拾遺物語の巻十四の十に、「土器を二つうちあわせて黄色のこよりで十文字にからげて土に埋め、呪詛に使った」というくだりがあるそうです。
また、道路で行うマツリとして、道饗祭(みちあえのまつり)、四角祭(しかくさい)というものがあり、道饗祭(みちあえのまつり)とは、京城四隅の路上において、外から来る疫神が京内に入らないよう、道に迎えて饗応するマツリ、四角祭(しかくさい)とは、道饗祭から派生した祭祀で陰陽寮が行うものだそうです。
東山道遺構の道端からこのようなものが出てきたのは、非常に大きな発見だとのこと。
この「特殊遺構」について、今日、はじめて聞いたので、私も大変興味をひかれました。
多賀城といえば、東山道の北の果て、陸奥国府が置かれた場所ですよね。
「丸に久」の墨書土器は、これまで多賀城跡以外からは出ていないそうで、四小跡地の東山道武蔵路遺構から出た「丸に久」の墨書土器が、東山道の北の果ての陸奥から来たものだとすると、いったいなぜ、ここに運ばれてきたのか、陸奥の土器でなぜ祭祀をとりおこなったのか。
あるいは、「丸に久」の墨書土器は武蔵国で作られたもので、「丸に久」の文字に込められた意味合いにおいて、陸奥と武蔵に共通のものがあったと考えるべきなのか、謎は深まるばかりです。
さて、この講演会が終わった帰り道、一緒に受講した友人と30分ほどお茶をした後、スーパーで買い物をして、家に向かって東山道武蔵路の遺構道路を歩いていると、なんと、向こうから小野本さんが一人で歩いてきました。東山道の上で会うとは奇遇です。
基調報告が素晴らしかったこと、「特殊遺構」の土器のお話が大変面白かったなどと感想を申し上げたところ、非常にうれしそうな顔をなさり、丸に久と書かれた墨書土器などの写真を撮るために、自腹で多賀城跡山王遺跡まで行ったのだそうです。
「特殊遺構」については、「もっと面白い話があるので、ぜひ、お話したい」とのことでした。
家に帰ってからあらためて遺跡地図を眺めてみると、四小跡地の東山道遺構の場所は、七重の塔から見て、ちょうど戌亥(北西)の方角にあたっています。
この場所で平安時代、道饗祭(みちあえのまつり)や四角祭(しかくさい)みたいなマツリが行われていたらしいと思うと、本当にワクワクしてしまいます。
是非、詳しいお話を聞きたいものです。
このブログでもレポートしてきたように、旧四小跡地内の東山道武蔵路遺構の表示は、隣接する福祉施設事業者らのゴリ押しによって実施設計がくつがえされ、道路遺構を芝生(草地)にしてその周囲が舗装という、まさにあべこべの表示になってしまうことが決定されてしまいました。
参照:http://masugata.blog.so-net.ne.jp/2010-08-25-1
しかしこの場所は、単に古代道路があったというだけでなく、東山道武蔵路自体が武蔵国分寺寺域の「結界」としての機能をもち、その四隅のひとつとして祭祀の場であったかもしれないことがわかりました。
古代道路遺構の中でも特に重要な箇所として位置づけられるべき場所が保存され、国の史跡に指定されたことはまことに喜ばしいことですが、それならばなおのこと、適切な遺構表示がされるべきでした。
ふるさと文化財課としても、この表示は決して本意ではないでしょう。
整備完了後は、この歴史公園の現地解説など、多くの人に知ってもらうための仕掛けに、力を入れて行くとのことです。
小野本さんら、若い研究者たちの熱意が、今、ひしひしと伝わってきます。
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